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BUNBUN塾では、生徒の保護者向きに毎月「おたより」を発行しています。
このページでは、その中で今までに掲載したコラムのいくつかを紹介しています。 
 2012年4月のコラム:ダブルスタンダード
  私が以前勤めていた鉄工所で、ある製品の製作に失敗した時のこと、工場長と私との間で こんな やりとりがありました。
 工場長と2人で丸1日かけて作った製品が全く使い物にならないことが分かれば、社長からの大目玉は必至です。私は気が重くなりましたが、工場長は明るい口調で私にこう言いました。
「社長に叱られたらよ〜、この失敗はお前のせいだって言っとくわな」
私は一瞬耳を疑いましたが、この話は続きがあります。工場長は言いました。
「お前は、この失敗は工場長のせいだって言っとけな。お互いに罪をなすりつけているうちに 社長も呆れてどっか行っちまうからよ〜」
 人間は誰でも、他人から「良い人」と思われたい部分があるものですが、工場長は そうった見栄をどこかに落としてきたようで、「部下に罪をなすりつけるイヤな上司」を演じられる人でした。
 さて、私は、千年の歴史を持つ武道の知恵を子どもたちに伝えることを生業としているわけですが、私自身も道半ばの人間であり、その達成度は 教える立場の人間としてはおそろしく低いなぁと たまに自嘲する次第です。
 「先生は伝えることが仕事だから偉そうなことを話すけど、先生が完璧にできるというわけではないよ」と子どもたちに言い訳をしながら、子どもたちのテストに「詰めが甘い!」というスタンプを平気で押すわけです。
 内心「自分が一番詰めが甘いじゃん」と思ったりもしますが、その部分には、こっそりフタをしています(^^)
 さて、年度初めから身も蓋もない話をしてしまいましたが、道徳をしっかり心得ていながら、不道徳でもあり、それを笑ってしまえる感性に私は憧れるところがあります。
 武道の先生ですから、あまりに不道徳であってはマズいでしょうし、そもそも世間で言う「飲む・打つ・買う」などには あまり興味が湧かない私ですが、良い先生だと思われると びびってしまい、ひいてしまう自分が居ることも事実です。
 BUNBUN塾という名前が“文武二道"からきていることは周知頂いていると思いますが、こうした両極の行動や 一見矛盾した価値観を そのまま受け入れるところに《 厚み 》が生まれます。
 人間はどうしても他人と自分を比べてしまう性があることを知っているが故に、基礎クラスでは「他人と比べる必要はない。自分が一生懸命やったかどうかだけを気にしなさい。比べるなら、前回の自分と」という言葉をかけ続けます。自分がいずれ年をとり、若い人には何も勝てなくなってしまった時に帰ることができる家づくりの意味もあります。
 しかし一方では、(たとえば学習クラスで)テストの順位もしっかり出し、競争心を煽ったりもするわけです。
 子どもたちにしてみると、「他の人と比べる方がいいの?比べない方がいいの?」ということになると思いますが、私の答えは「どっちも必要だよ」
 これは、いわばダブルスタンダード(二重基準)と言えます(世間であまり良い意味では使われない言葉ですが・・・)
 「自分は一生懸命やったか?やったなら それでいいじゃないか」と自己完結型の満足感(絶対的価値観)と、「世の中は競争だ。結果が大切だ」という相対的価値観の二つを交流電気のようにプラスマイナスを行き来させながら自分の心を安定させられるようにしていくのが武道の知恵の一つです。
 それにしても、茶番を演ずるにせよ、相手に罪をなすりつけて平気な神経になる 工場長の域に達するまでには 私もまだまだ修行が要りそうです(^^;)
 
 2012年3月のコラム:アランの《幸福論》
 「幸せとは何か?」哲学者に限らず、人間にとっての永遠のテーマです。
 皆さんにとって《幸せ》とは何でしょうか?
 タイトルにあるアランは、19世紀から20世紀半ばまで活躍したフランスの哲学者で、最近ではNHKの番組でも採り上げられたのでご存じの方もおいでと思います
 アランはそれまでの観念的な哲学者と異なり、身体と幸福について多くを語っています。その中の代表的なことばを一つ。

 “人間は、幸せだから笑うのではない。笑うから幸せなのだ。”

 機嫌良く振る舞うことで 実際に機嫌が良くなるという体と心の関係をアランはよく知っていました。
 アランはそれを逆からも述べています。

 “不幸になるコツを知ってるか?ただ椅子に座ってジッとしていれば良いのだ”

 不機嫌にムスッとしていても やってくるのは不幸だけだ。何でも良いから ちょっと体を動かしてみなさいというのです。
  さらにアランはこうも言っています。

 “機嫌が良い自分を作ることは他人に対する礼儀である”


言い方を変えて、

 “自分が幸福であることは、他人に対しても義務である”

 とも言っています。
 人間、機嫌が悪いときは、思い遣りの心は芽生えません。機嫌の悪さと思い遣りは水と油なのです。言い方を変えれば、機嫌が避ければ 思い遣りの心も生まれやすいと言えましょう。
 だからこそ、人は“機嫌の良さ”を真剣に追求せねばならないとアランは述べているわけです。
 とはいえ、四六時中 機嫌良く過ごすことは 難しいことです。しかし、少なくとも機嫌が悪くならない工夫はできそうです。
 その一つのコツをアランはこう述べています。

  “他人の多少の非礼は笑って済ますと心に決めておきたまえ”

ポイントは、「決めておくこと」。決めておかず、気分にまかせれば不幸の度合いは増えていきます。
 子育てにおいて、枝葉末節は笑って済まし、自分の機嫌を損ねないように過ごすことは 礼儀であり義務といえるのかもしれませんね。
 
 2012年2月のコラム:子どもに甘えること
  先日、自宅の本棚を整理していましたら、ふと気になって そのまま読み出してしまった本がありました。
 その本のタイトルは『未熟な夫にホトホト困っているあなたへ』
 何年か前のおたよりでも採り上げたので覚えている方もおいでかと思いますが、我々 男性には、あいかわらずドキッとするタイトルです。 
 その中で、今回改めて印象に残ったのが「“甘える”と“甘ったれる”を区別する」という項目。
甘ったれるのは、相手の成長を妨げ、甘えるのは相手の成長を促すという筆者の見解は卓見ですが、思い出せば、私が以前勤めていた会社でも、良い上司は部下を上手にノセて仕事を任せる甘え上手でした。
 しかし、人間そうそう簡単にノセられるものではありません。部下をノセようとする意図が見え見えのオベンチャラを言ったがために、かえって反感を買ったり、「君ならできると信じている」というような熱血路線で言ってはみたものの、部下をかえって興冷めさせてしまったり・・・甘えるのもそれなりに難しそうです。
 そんな中、先日、ある生徒が友達にブツブツ言っているのを小耳に挟みました。
「オレの母さん、忙しいから、最近は『お皿洗っといてね』って言って仕事行っちゃうんだ」
まだ小学校中学年の男の子です。
 中学年の男の子ですから、洗い残しなどもあるでしょうし、シンク周りがベチャベチャのままということもあるでしょう。お母さんは仕事から帰って、溜息をつきながら洗い直しをすることもあると思います。
 しかし、時々 一緒にお皿洗いをやっているうちに、その子は必ずお皿洗いも上達していきます。その話を聞いたとき、私は「上手に子どもに甘えてみえるなぁ」と感じました。
 私はその子に「それって すごいな!お母さんから頼りにされてるんだぁ。先生だって奥さんから そこまで頼りにされてないぞ」と横からクチバシを挟んでおきました。
 子どもを慈しむ母性は、何者にも替え難く大切なものです。しかし、それが時に、過保護に繋がり、
大人へと向かう子どもの成長を阻んでしまうこともあります。“やれる年齢になれば やらせていく”という方向性を持って欲しいと思います。
 まだ腕力がない2年生くらいまでは、くつそろえ、お箸やコップの準備や片付け、服をたたむ、ゴミ出し、簡単な調理補助などの いわゆる“お手伝い”で良いと思いますが、3年生くらいになれば、毎日のお風呂洗いやトイレ掃除など、少々力を使う仕事もできますし、お皿洗いでもコップなどの軽い汚れものならきれいに洗えます。高学年になれば、料理だって十分できるでしょう。
 国連が児童労働撤廃を訴えて約100年。今なお劣悪な環境で労働に携わる子どもたちは世界中に2億人以上いるとされていますが、先進国では いきすぎて一切の家事労働から子どもを切り離す方向で動いてきました。私たち親の世代も子どもの時、「子どもの仕事は勉強」などと言われてきました。
 しかし、それはあたかも、清潔がいきすぎて免疫力を弱くするのと似ています。一見正しいと思えることでも限度を越せば弊害が出てくるのです。
 家事から切り離されて育った男の子(すなわち私たちの世代)は、母親にしてもらったことと同じことを妻に要求するようになったり(マザコン)、家事に慣れがない(汚れ仕事に慣れていない)女の子は、夫の下着を洗うのがイヤになったりします(^^;)。
 家事労働にしても、教育目的で ちょこっとお手伝いをさせるのではなく、本気で子どもに甘えてみようとすることが必要だと思います。
 子どもの力って本当に あなどれないものです。家事をきちんとシェアしていけば、忙しい母親は本当に子どもに助けられます。そして、子どもに助けられるからこそ、本当の意味での感謝を子どもに対して感じることができるのです。
 先日、18才になる私の三男が、慣れた手つきで掃除機をかけながら、「ぼく、将来良い旦那になる自信が ちょっとあるんだけど・・・」と冗談交じりに言っていました。
 私は、不適な笑みを浮かべながら「ふふふ、夫婦生活、そんなに甘いもんじゃぁない」と釘をさしておきました。
 
 2012年1月のコラム:夜空の向こう
  大晦日恒例のNHK紅白歌合戦。最近では視聴率も昔ほどではないらしいですが、もう十数年前のこと、紅白歌合戦で謡われた歌で、なぜかその歌詞が心にスッと入って忘れられなくなった歌があります。SMAPが謡った『夜空の向こう』という歌がそれで、「あれから、ぼくたちは何かを信じてこれたかな・・・」という歌詞が心に響きました。
 さて、年が明けました。一部の若者にとっては受験シーズンの到来。1月半ばには大学受験のセンター試験が行われます。
 思い返せば、私はこのセンター試験(当時の呼び名は『共通一次試験』)を5回も受けています。
 中学卒業後、親元を離れた私は、有名な空手の先生が居る山奥の高校に通い、その先生の元で空手の練習に打ち込みました。
 特に運動神経に恵まれていたわけでもない私が、大会で それなりの結果を残せたのは、私が他の情報に惑わされず、先生の言うことを信じてついていったからだと思います。
 豊かな自然と親切な人々に囲まれて過ごした3年間は、私にとってかけがえのないものですが、こと勉強に関しては、まるで小学校に戻ったようでした。
 数学では、割り算が満足にできない、英語ではブック(book)を(buk)と書く同級生も多い中では、私の成績は常にトップレベル。私の自尊心は大いに満たされました。
 ところが、高校3年生の時、ある医師の生き方に感銘を受けた私は、無謀にも国立大医学部を目指すことに決め、早速 模擬試験を受けてみました。
 ところが、生まれて初めて受けた模擬試験、その結果は、偏差値28のE判定。校内トップレベルは、実は全国最低レベルだということが判明。そのおかげで、私は“できる人間の気持ち”と“できない人間の気持ち”を両方いっぺんに味わうことができました。
 現役受験は見事に足切り。浪人生活に入った私は、昼間の勉強をメインにおきたいという理由で、夜に働く道を選びました。
 私はバーテンダーとして、カウンターの中から、一流会社という所に勤める人や底辺労働に携わる人の会話に耳を傾けました。
 昼間は昼間で、国立医学部を目指すトップレベルの若者と、私と同じような底辺レベルの若者と、両方との交流がありました。
 そのどちらも、味わい深い人生を歩いて行ける予感は感じましたし、それは今、親として教師として子どもたちを見る時の安心感に繋がっています。「どんな道でも 心さえきちんとしていれば豊かな道に変えられる。だから、今はダメでも焦らずとも良い」という安心感です。
 しかしながら、一方では「勉強は やっぱり、できないよりはできた方が良いなぁ」と感じたことも事実です。
 長い受験勉強の中で私はあることに気づきました。トップレベルの受験生も底辺レベルの受験生も、持っている参考書や問題集の数は同じ。いや、むしろ底辺レベルの受験生の方が教材にお金をかけているということでした。
 では何が違うのか。
 私は、純粋さが一番違うのだと思います。ここでいう純粋さとは、心の清らかさではなく、1つのものを信じ、それをやり遂げようと ひたむきに取り組むことです。
 トップレベルの受験生の多くは、1冊の参考書をそれを完璧に理解するまで何度も繰り返しました。
 ところが、私のようなできない生徒は、参考書の半分もやらないうちに「あっちの参考書の方が良い」と すぐに乗り換えてしまいます。
 高校時代、山に囲まれた閉ざされた環境の中で、1人の先生を信じて空手に打ち込んできた純粋な心を失い、多くの受験情報の中で その自覚もないまま私は溺れ、その結果、5回もセンター試験を受けることになったのでした。
 現代は、当時よりさらに多くの情報が、子どもたちと私たち親の周りに溢れています。
 「あれから、ぼくたちは何かを信じてこれたかな・・・」、振り返ってみれば何も純粋に信じていない、そんなことになっていないでしょうか。
 勉強・運動・仕事・家庭、何に対しても、「自分は純粋な部分を持っているか」、親に限らず子に限らず、常に振り返ってみる必要がありそうです。
 
 2011年12月のコラム:へうげもの
  戦国時代、時の権力者・豊臣秀吉を恐れさせるほどの実力を持ちながら、茶道の世界にのめり込んでいった武将・古田織部を主人公にした『へうげもの』というアニメが人気です。
 織部焼きに限らず、高価な茶器の中には、形が歪んでいたり塗りにダレがあったりして、おおよそ幾何学的な美とは対極をなしているようなものが少なくありません。
 私は茶器には疎いのですが、少なくとも、日本人が そういった歪みやダレの中に美を見いだし、『深さ』という方向性を持つようになったとは言えそうです。
 さて、書店の教育関係書のコーナーに行くと、相変わらず【子どもを伸ばす】とか【子どもが伸びる】という副題がつけられた本が目立ちます。
 しかしながら、実際にそれらの本を読んでみると、その多くは“能力や才能を伸ばす”・・・ つまり上へ伸ばすものばかりで、最近食傷気味です。「上に伸ばすのは良いのですが、上だけですか?」と思ってしまいます
 さて、先回のおたよりに登場してもらった婚活中の女性ですが、その彼女のコメントその2:「男はやっぱバツイチね。1度心に大きな傷を負った人の方が味があるわ。底が浅い男はイヤ」なのだそうです。
 コメントへの評価はともかく、少なくとも私たちも“かげり”とか“傷”とかに惹かれる感性を持っているとは言えます。
 たとえバツイチではなくても、夫婦が傷つけ合ったり、親子間でも 口をきかなくなったり、時には家を飛び出したり・・・その他とても他人には言えないような状況があってこそ、それが後で味に変わる(深さが出る)というものです(^^;)
 やはり、私たちは“上に伸ばす”ばかりでなく“深さを伸ばす(愛でる)”という方向性を持つべきでしょう。
 子どもの世界も大人の世界も、色々なことがありますが、何が幸いして 何が災いするかは長い目で見なければ分かりません。
 とするならば、有頂天も御法度ですが 絶望もありません。絶望がなければ安心です。
 「上を目指して それがダメでも深さに変わる」と思えば さらに安心。たとえ子どもの心が傷つくできごとがあったとしても、その中に光を見いだすことができ、子育てが安定します。
 「深みのある人間に育って欲しい」・・・そんな“へうげもの的な子育て”があっても良いのではないでしょうか。
 
 2011年11月のコラム:自己矛盾を見つめること
  先日、婚活中という女性と話す機会がありました。その女性曰く、
「私は私をどんどん引っ張っていってくれる人が好き。『何食べたい?』『どこ行きたい?』なんて聞く男はイヤ」なのだそうです。
 しかし、しばらく話を聞いていると、その女性は「私は自分のことは自分で決めたいタイプ。相手にあれこれ言われるのはイヤ」と言っていました。
 どちらも本音なのでしょうが、両方の条件を満たしてやるのは かなり難しそうです。
 上のような話は、半分 笑い話として聞けますが、人間は誰でも多かれ少なかれ矛盾した欲求を持っています。そして、その矛盾の多くが自尊心と深く関わっています。
 「貧乏人の子だくさん」と言われていた頃と違い、現代は少子化の時代。子どもたちは親から かけがえのない存在として育てられます。
 たしかに幼少時において「自分は理屈なしに親から愛されている」と感じることは、健全な情緒の発育のためには極めて大切だとされています。この時期に 親からしっかりと愛されたという充足感があるから、その後の人生において、必要以上に相手を束縛しようとしたり、攻撃的になったりしないで済むという心理学の見解には ある意味納得できます。
 しかしながら、親から愛されたという記憶も実は、“他者からも愛される自分”を期待する心の種を撒いている面があることも 私たちは知っておかなくてはなりません。
 周りの全ての人間が自分に対して好意的で、誰からも軽く扱われない・・・そんな自分を私たちは無意識に望んでいますし、その想いを全て捨て去ることはできません。
 挨拶1つにしても、こちらがきちんと挨拶をしたにもかかわらず、相手から素っ気ない挨拶が返ってこれば、矢よりも早くマイナス感情が顔を出します。
 相手がたまたま忙しかっただけかもしれません。挨拶を返す心の余裕がなかっただけなのかもしれません。しかしながら、感情は そんな都合を考える余裕もなく一瞬にして心を占拠してしまいます。
 ここで心が健康な状態なら、「気にしない気にしない。きっと何か理由があるのだろう」と遅ばせながら 理性でマイナス感情を補うことができます。
 しかし、心のコントロールが そうそう いつも上手くいくとは限りません。
“その相手と気持ちが良い挨拶をしたい気持ち”と“その相手に何かイヤな想いを返してやりたい”という矛盾した気持ちを気づかないうちに抱えてしまうこともあるでしょう。 
 こうして、私たちは 自分の自尊心を守ろうとする故に、小さな自己矛盾をたくさん抱えて行くことになります。
 小さなことにこだわる小さな自分・・・この自分をしっかり見つめることが大切です。
 見つめたからと言って楽になるわけではありませんが、原因がわからないイライラを抱える 心の危機は避けることができます。 
 夜、私たちは夢を見ます。その夢がどんなにキテレツだろうが あり得ない状況であろうが、夢を見ているときの私たちは それを矛盾だと感じません。
 心というものは、ある意味 それに似ています。自己矛盾した欲求をしているのに それを矛盾だと気づかないのです。
 私たちは子どもたちを大切に育てようとしています。しかし、大切に育てようとするが故に生まれてくるであろう子どもたちの心の矛盾にも しっかりと気づいてあげたいと思います。もちろん、私たち自身の心の矛盾にも目を向けながらですが・・・
 
  2011年10月のコラム:樫の木の詩
  先日、ふらっと書店に立ち寄ると、壁にかかっていた1枚の油絵が目に留まりました。
 そこに描かれていたのは一本の樫の木。大地に根を下ろし、ドッシリと、しかし ユッタリとした樫の木でした。
 私にとっての父性のイメージは、昔から【木】であり、学校というものにあっては、大木であって欲しいと思っています。
 大木は力強く枝を張り葉をしげらせ、その傘の下に集まった小動物を雨や日照りから守ってやります。
 しかし、木は動きません。動けば、それまで木陰で休んでいた者を日照りに晒してしまいます。大木の庇護を受けたいなら、小動物の方が近づいていかねばならないのです。
 そんな中、最近の学校は、子どもの事情に合わせすぎて 少々足元がふらついているように思えます。
 たとえば、極端に私語が多い・教師を愚弄する・教室を歩き回るなど、まともに授業を受けられない子どもに対する対応などがそうです。
 そもそも、その子どもたちは 本当に「授業をまともに受けられない」のでしょうか?
 そうではなくて、その子どもたちが「おとなしく授業を受けなくても良い」という選択肢を 持っているから そうなっているのではないでしょうか。
 本来、選択肢がたくさんあるということは、豊かさの表れです。しかしながら、同時に迷いの原因であることも忘れてはなりません。
 鉛筆を手にしたとき、「この鉛筆で人を刺せる」という選択肢は、まともに生きていく上では迷惑な選択肢であり、こんな選択肢は頭の中から抹消した方が良いに決まっています。
 授業をまともに受けられない高校生が、マクドナルドでは立派に働いているのは、“仕事をしなくても良い”という選択肢が 最初から ないからであり、小学校1年生が最初は全員きちんと先生の話を聴いていたのは “話を聞かなくても良い”という選択肢が自分の中になかったからでしょう。
 先天的な理由などで、本当に「できない」のか、「やらない」だけなのか、厳しい目でしっかり見極めなければなりません。
 やはり、学校は大木であるべきです。“ドッシリ”と“ユッタリ”を兼ね備えた大木であって欲しいと思います。
 上で述べた樫の木の油絵を見て、頭に浮かんだ物語を紙芝居にしてみました。その最後に出てくる詩(?)をご紹介したいと思います。

私は樫の木である
私の元に来る者は、誰でも休んで行くが良い
私の枝になるドングリは、誰でも好きに食べるが良い

私は樫の木である。
私の元を去る者は、いつでも去って行くが良い
そして、戻りたくなったら、いつでも戻ってくるが良い
変わらぬ態度で、私は君を迎え入れよう

しかし、私は樫の木である
私の元まで 辿り着かぬ者を休ませてやることは出来ぬ
私の目の前で、君が息絶えようと、私は君を助けることが出来ないのだ

ただ立っていることしか できぬ
自分の無力さに打ちのめされ、
いつしか私は無口になった
枝を張り、ドングリを実らせ、ただ君たちを見守っている
それが、樫の木である私にできることの せいいっぱいである

 学校側は、「ここは授業を行う場である。授業をまともに受ける気がある者だけ教室に入るが良い」と宣言すべきだと思います。
 授業は団体行動の1つです。授業をまともに受ける気がない子は、たとえば運動場で「気をつけ!」「やすめ!」などの集団訓練をひたすら行うのはどうでしょう・・・ちょっと安易すぎますか。
 罰を与えるのではありません。「きちんと授業を受けられそうだなと思ったら いつでも教室に戻って良いよ。できなくなったら いつでも 運動場に戻っておいで」ということなのです。 
 しかしながら、そんなことを言おうものなら、「不登校になったらどうする!」・「自殺者でも出たらどうするんだ!」 という非難の声が聞こえてきそうです。
 しかし、無理は言っていないはずです。“授業を故意にかき乱す者は授業に出られない” ・・・ 当たり前の話です。
 あとは、学校が信念を持つこと・・・ 批判が上がっても、それに耐える勇気を持つべきです。
 健全な市民を育てるための機関として まず学校があり、その学校に対して、子どもの側が適応していく、その方向性を見失わないことが大切なのだと思います。

 
  2011年9月のコラム:標語の功罪
  「食事の前には手を洗いましょう」「交通ルールを守りましょう」「規則正しい生活をしましょう」など、私たちの周りには標語がいっぱいです。その他にも、誰が言ったのか、スーパーの出来合いのオカズで済ます母親が多いのはけしからんとかで「我が子に手料理を」なんていう標語もありました。
 しかしながら、標語はあくまで標語。一応の道標とはなりますが、それを守っていれば事足れりという訳にはいきません。
 いつも手を洗って衛生を心がければ、それが人間の耐性を弱めることに繋がるかもしれませんし、交通規則を守っていれば安心といった感覚は、危機管理能力の低下に繋がっているかもしれません。
 いつも規則正しい生活をしていれば、それが 環境の変化への順応性を弱めるかも知れませんし、お母さんが、美味しいオカズを作れば作るほど、それが(男の子の場合)、将来のお嫁さんの食事を美味しいと感じられなくする要因になるかもしれません。
 もちろん、不衛生よりは衛生が良いでしょうし、交通規則は守るべきものでしょう。はたまた、乱れた生活よりは規則正しい生活の方が良いでしょうし、毎日カップラーメンといった生活よりはお母さんのおいしい手料理が良いでしょう。
 しかし、それだけでは、やはりバランスが偏っています。
 標語を盲信して、正しいとされることに心がとらわれると、人は どんどん神経質になっていきます。
 人には、やはり どこかで“イイカゲン”なところを持ちあわせてバランスをとる必要があるようです。
 道路に落ちたお菓子を手でパッパと払って口に放り込むことも必要でしょうし、ヒト気がない横断歩道では、親子の散歩で信号無視というのも良いでしょう。
 たまには、深夜まで親子でゲーム三昧ということがあっても それほど害があるとは思えませんし、「今日のオカズは 昨日の残りモノで我慢してね」というのは全くもって良いと思います。
 世に標語は必要ですが、それは方向性を示しているにすぎないことも事実。子どもに標語を指し示す際は、標語の矛盾も併せて考えてみたいものです。
 「それでは子どもが混乱する」と思われる方もみえると思いますが、矛盾を抱えたままの感覚の方が、子どもの生活環境にも見合っていると思います。
 標語を楯に正義を振り回せば、かえってトラブルが増えることも、子どもは肌で感じているのです。「人生って難しいね」と、親子で笑い合うくらいが健全な姿だなぁと思う今日この頃です。

 
  2011年8月のコラム:なでしこジャパン
 なでしこジャパンが女子ワールドカップで優勝し、テレビの前で大喜びした方も多いと思いますが、私もそのくち。テレビを見ながらハンカチで目を拭っていました。
 そして、興奮まだ冷めやらぬ頃の勝利者インタビューを聞いていて ふと思ったこと。それは「もしこれが3ヶ月前であったなら、選手たちのコメントも また違っていただろうなぁ」ということです。そう、今回は 被災地に関するコメントがほとんどありませんでした。
 未曾有の被害と悲しみをもたらした東日本大震災が起きて約5ヶ月。まだまだ避難所で多くの人たちが苦しい生活を強いられ、復興作業もこれからが本番とさえ言える中、メディアから伝わってくる映像に私たちは間違いなく飽きを感じています。
「被災地の人々を勇気づけよう」という想いで監督は選手を鼓舞してきたということですが、選手たちは それとは違うモチベーションで自分を高めてきたことをインタビューを見ていて感じました。
 ヒトは日常に還ります。
 なでしこジャパンの優勝で盛り上がった気持ちも、東日本大震災による被災者の人々に心からの同情を感じた心も、私たちは やがて日常の圧力に押し戻されます。なでしこフィーバーにも いつのまにやら終わっているはずです。
 脚下照顧(きゃっかしょうこ)。自分の足元を再び見つめながら、ほんの少し、ほんの少しずつ。途中で挫折しても、また少し、ほんの少しずつ私たちは歩いて行くしかありません。
 遠くに見える大輪の花は、すぐに霞んでしまいます。一生を歩き続ける力になってくれるのは、結局足元に咲いている小さくて地味な花の存在。走ってしまえば見逃してしまいます。
 子育てにおいて、急な変化は脆いもの。「ゆっくりが良い。何年もかけて ゆっくりの方が良い」そんな心持ちで子どもと接していきたいものです。
 
 2011年7月のコラム:心の元気と鬱について 
 日々、慌ただしく暮らしている私たち現代人ですが、その行動のほとんどは、意識せずとも脳が自動的にコントロールしています。思考でさえも、脳が作り出す気分によって 大きく左右されてしまいます。
 このような脳の自立性のおかげで、私たちは生きていられるのですが、いかんせん意識の外で行われていることを、自分で把握することは難しく、結果として『自分のことは自分でも分からない』ことになります。
 以前のおたよりで『心の3大栄養素』といったことを書きましたが、自分の心が何によって栄養を得ているのかは 自分でも分かりにくいものです。
 無くなってみて始めて「ああ、これが 自分のエネルギーの元だったんだ」と気づくものも多いわけです。
 当たり前に持っていて 当たり前に衰えていく― 若さや美貌や体力といったものが 自分の心にとって大きな栄養素となっている場合もあります。
 家族の存在が大きな栄養になっている人も多いでしょう。
 私の場合、3人の子どものうち2人が親元を巣立って行き、いつも近くに居たものが居なくなったことで、なんとなく全体的に気力が湧かなった時期がありました。体の重さを半分くらいの筋肉で支えているような感じでした。その時、改めて「子どもが近くに居ることで自分は栄養をもらっていたんだなぁ」と感じました。
 エネルギーに満ちているようなスポーツ選手が、引退した後に すっかり活力をなくして 凋落の道を歩いて行く例は枚挙にいとまがありませんが、これは それまでの栄養にかなり偏りがあり、しかも その栄養が急に失われたことを示しています。
 それに対して、ダライラマやマザーテレサのような宗教者は活力にムラがないように思えます。
宗教という 変わらないものが大きな栄養となっているからでしょう。
 私が塾で子どもたちを見るにおいて、とても注意して見ているのが「その子が、安定した価値観を自分の中に作りつつあるかどうか」です。
 安定した価値観とは、加齢によっても変わらない価値観であり、自分の外見や能力、あるいは金銭のあるなしに大きく左右されない価値観であり、心の最後の支えになる部分です。
 世にモノが溢れ、豊かになってくると、安定した価値観を持っていない人は、自分の外見や能力の衰えとともに元気がなくなり、代わりの栄養が見つからなければ 鬱に向かいます。
 そういった意味においては、子どもたちよりも むしろ私たち親の方が危機に面する時期です。安定した価値観が自らの心に育ってきたかどうかの結果が出始める時期だからです。
 価値観の形成は、実は幼児期から始まっています。人間にとって、根本的に大切なのは何かを自らに問いながら、それを子どもにも伝えていきたいものです
 
 
 
 


以下、順次、過去のコラムの分類をすすめていく予定です。
《 家庭教育 》 について
《 人間 》 について
《 学校教育 》 について
《 平和 》 について
《 心と科学 》 について
礼 》 について
《 価値観 》 について
《 父親 》 について
《 暴力 》 について
その他